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鈴木が結婚した理由◆起承転結【起】&【承】

多くの方の期待を裏切り、「結婚」という選択をしたわけですが、
結構聞かれる、「何で結婚したの?」という質問。

結婚の理由やいきさつが長すぎたので、いつもうやっとむやっとさせてたのですが、ここですべてさらけ出すことができる状況になったので、一応文章に留めておきます。

備忘録も兼ねてなのですが、これから、同様の質問をされたら「これを見て!」で済むかと思うと気が楽です。

◆「起」承転結
私は25~6歳ころ六本木や銀座で1年半ほど、水商売(バーマン)をしていた時期がありまして、当時の鈴木はとある女性宅にほぼ居候状態でした。
明確にお付き合いをしていたわけではありませんでしたし、はっきりとした恋愛感情があったわけではありませんでしたが、約1年いわゆる「ヒモ」生活を送っていました。

彼女は・・・12歳で両親が離婚➡母親についていき、母親は再婚➡母親病死➡実父の元へ➡実父病死➡ステップファザーは再婚➡血の繋がっていない妹が生まれる➡その妹も病死➡義理の両親はそれを境に不仲➡離婚➡血縁者もいないので高校中退して上京。

といった稀に見るドラマティックな過去を持つ女性でしたが、僕の前ではそんな過去を微塵も感じさせないほど明るく、六本木のキャバクラでブイブイ働いていました。
そんな彼女のご厚意にずっぽり甘えてたものの、水商売をやめ、経営コンサルティングを中心とした事業を行う会社に入社しました。
それを機にズッポリはまったヒモ生活を卒業し、彼女とも疎遠になりました(生活時間が逆転していたからね)。


◆起「承」転結
2016年8月、その女性の友人(俺が知る限り、当時その女性の唯一と呼べるレベルの友人)からFacebookでメッセージが届きました。
内容は、その女性が、かれこれ数か月、大病で入院している旨を伝えるものでした。
連絡を取らなくなってから5年以上が経っていましたが、当時の感謝もあり、お見舞いに行きました。
すると、そこには弱々しく、会話もギリギリ状態のその女性が寝ていました。

良く聞く大病だったのですが、ここまで弱っているとは知らず、自然と涙が流れました。その女性も突然僕が来たことに一瞬驚いた様子を見せましたが、「わたしもおかあさんといっしょの病気になっちゃった・・・」と、消え入りそうな声でつぶやいた光景は今でも目に焼き付いています。

その日は長居もせず、また来るね。と病室を後にすると、担当の先生と婦長さんから呼び止められました。
要約すると、直近4か月ほど入院費の支払いができておらず、任意の保険等にも加盟しておらず、支払いができない状況で親戚もいないという。
それであれば本意ではないが、国の施設に行ってもらうほかなくなってしまう、誰か協力できる伝手はございませんか?とのこと。
もちろん病院もボランティアではないので、お金を払えない患者を入院させ続けることができないのは理解しました。

その後、週1回ほどのお見舞いを重ねて、本人同意のうえで、病状と余命の宣告を聞きました。
そして、それまでの入院費、その後の入院費を支払うことを約束しました。
それから、各種助成金やサポートを受けながら、何とかその女性を入院させ続けることができ、2017年2月衰弱しきったまま息を引き取りました。

つらつらと書き綴りましたが。今でもこの時俺がとった行動が正解かどうかはわかりません。最後の2か月くらいは本当に苦しそうで、正直見ていてつらかったです。
病状が良くなることは絶望的な状態で、中途半端に生きながらえる活力を与えてしまったのかも。そもそも本人はこの状態を本当に求めていたのか・・・もっと早く楽にしてあげることができたかもしれなかったのでは・・・いろいろ考えました。元々安楽死推進派でもあるので、こんな状態で生きながらえて何になるんだろうかという気持ちもありました。

ひっそりと火葬をして、お骨は彼女の地元の役所で手続きをして、無縁仏のお墓にいれて頂きました。

何もない田舎でバスを待っていると、両肩がスッと楽になることを感じました。もうすぐ33歳。この半年間、生活+入院費の支払いが重くのしかかっていたことは事実でもあったので、言葉を選ばずに言うとこれで解放された!という感情でした。さぁ、ここからどうしてくれようと思い、田舎の場末のスナックでほろ酔いになり、新幹線に乗っている間そろそろ「結婚」なんておぼろげに考えていました。

◆起承「転」結に続く。