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「一体感」とはリーダーや組織が求めてはならない魔の虚像

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「一体感」
これを持つグループは強い。

今までの人生で自身や周囲に「一体感」を感じたことのある人は決して少なくないだろう。

何を持って一体感というかとなるととても微妙なところではあるのだが多くの場合「一つにまとまったと感じること。グループやその場にいる人々の気持ちや考えが一つにまとまること。(例「クラスの一体感が高まる」「観客との間に一体感が生まれる」)
とされている。

しかし、残念ながらこの一体感というのは自己満足を語る養分として活用されているに過ぎないだけのことが多い。

例えば、運動会や体育祭、文化祭や合唱祭など、中学校、高校のクラス単位などで行われる企画に際し、企画終了後に「一体感」を感じることができた人間が100%であることはまずない。グループや組織において100%の割合で「一体感」を感じていない場合はすでに「一体感」ではないのだ。
でもクラスの大半は卒業後なども思い出話で酒が飲めるくらい当時の「一体感」に酔いしれているのだ。

クラス単位などの場合「一体感」が生まれない原因としては「冷めた生徒」「その企画を不得意としているため積極的に関与したくない生徒」などが要因となる。

では部活やスポーツチームにおいてはどうだろうか。
一定の目標を達したり成果を上げた時など、スタメンや主力として活躍している選手、自身の統率や教育により選手をマネジメントする側の立場から「一体感」を得ることはあるかもしれないが、「もっとこういうやり方があったのに・・」と思う選手以外の立場のメンバーや「試合に関与できなかった」、「思ったような感触を得られなかった」選手たちは「一体感」を感じたと感じている選手や指導者に対してある種の疎外感を覚えるだろう。そしてそれは関わる人間が多ければ多いほど、大勢が「一体感」を得たつもりになっている中、実感として湧かない立場にいる人間は多くなる。

グループや組織がまとまって目的や目標に突き進む上で、「一体感」は非常に重要だ。しかし、リーダー、首脳陣、中心的な役割の立場の人間が「一体感」を求め、結果「一体感」を感じることはあるが、その時には必ず「感じることができなかった」「不満や不安を覚えてしまった」人間がいることも心に留めておかなければならない。

ビジョンの共有や擦り合わせは「一体感」を感じた瞬間、求めた瞬間こそなおさら行わなければならない。

残念ながら一定数を超えたグループにおいて、100%の人間が同じ思考やビジョンを持ち続けることは不可能だ。
しかし、リーダーや中心となる人間はその割合を高めるために、思考やビジョンを共有し進めていくと同時に、思考やビジョンのズレがあることはある種諦め、そのズレを少しずつ修正していくことが重要だ。

その結果、思考やビジョンのズレを認識している側のメンバーから客観的に「一体感」を認めてもらうことが重要だ。

その上でその「一体感」を持ったグループが魅力的かどうであるかの判断を委ね、思考やビジョンのズレをさらに小さくし続けていくしかない。

リーダーや中心のメンバーが「一体感」に酔いしれている間、「一体感」という虚像を求めている間は本当の意味での「一体感」は生まれない。

「一体感」とは「一体感」を感じ得なかったグループ内のメンバーが、思考やビジョンのズレを修正しようとする先にある魅力でありモチベーションであって、リーダーや組織が求めてはならない虚像なのであると考えている。