THE BLOG

スポーツとか色々書きます

子供の誕生と叔母の死

どこまで伝えたか誰に伝えたかも分からないので、ここに記しておくと、7月に子供が生まれます。

すでに2人の父親として生活はしているが、生誕から携わるのは初めての経験です。

順調にいけば7月頭に出産予定で、今のところは全て順調っぽく、胎盤の収縮による緊急短期入院はあったものの、まずはこのまま健康に生まれてきていただきたい。

その意味でも嫁には感謝だ。

つわりマックスの頃は正直理解しかねる部分もたくさんあったし、悪いことしたなぁとは思うこともあるがどんな状況であれ最善を尽くそうとするべきだし、それぞれに大なり小なり問題はあり、大小に関わらず省みて改善すればいいのだ。そして必要に応じて謝罪すれば良い。
つわりって大変なんだよ!男がもっと理解するべき!という言葉や考えもあるとは思うしそれは理解しているが、だからといってなんでも許されるわけではないというのが持論だ。異論は認めるが何をいってもおそらく響かないと思うので「こいつ最低やな・・」と再認識していただければ幸いだ。

ということで、仕事面では退職、起業、プライベート面では36歳というアラフォー界を背負って立つ世代になり、いよいよ「おっさん」だ。しっかりおっさん。
そして出産を経て新たに一人家族が増える。

お祝いはいくらでもお待ちしている。
ありがとうございます。

その辺はまた改めてしっかり要求させていただきます。

そんな最中、5月上旬に母の姉、つまり叔母が息を引き取った。

備忘録ではないが、叔母の名誉ある人生と死について書き残しておきたいと思う。

叔母は祖母が20歳で産んだ祖父母の第一子。
その3年後に俺の母親が生まれた。

文京区の陸上の記録をいまだに保持し続けている母親が「おねーちゃんは本当に脚が速かった。」というほどの身体能力を持ちながら生まれつき腎臓が弱く子供の頃に祖父の腎臓を移植したらしい。
60年ほど前の医療実情は知らないが、今より相当リスキーであったことは想像に難くない。なかなかアグレッシブな判断だったのではないかと思う。

そして、その影響で激しい運動もできず、さらに45年にも亘る透析を続けてきた。

当時は10年透析し続けたらすごいと言われてたそうでそれを45年も続けてこれたのは医療界の発展と医療従事者の皆様と叔母の頑張りに他ならない。
今更だがとても感謝している。

そんな叔母は子供が産めない状況だったので生涯独り身で祖父母の家で暮らしていた。
小学生時代に通っていたスイミングスクールと高校の目の前に家があることもありしょっちゅう通っていた。

小さい頃から頭脳明晰な叔母は20歳でパリへの長期留学を始め欧米各国への短期留学をかますナイスなレディだった。
考えて欲しい。
今から50年前がどういう時代か。
その時にパリへ留学に行くんだから叔母の思考回路とそれを可能にした祖父母はマジでグランド。

日本に帰国してからは長年通訳や翻訳を生業としていた。
英語、フランス語、ドイツ語を操り晩年は韓国語もほぼマスターしていた。韓国語は独学とドラマのみで覚えたとのこと。8年もの間、週1で家庭教師とママ友を招いて連日長時間韓流ドラマをみていた母親が韓国で全く喋れなかったことを目の当たりにした俺は改めて祖母の凄さを実感した。

会話だけに飽きたらなかったのか、叔母は俺が小学生の頃から点字をはじめた。
程なくして日本語、英語の点字をマスターし、俺が小学校を卒業する頃には日本語点字の講師の資格までゲットしていた。
もしかしたらただの訳したがりなのかもしれない。でも超グランド。

小さい頃からわりと活発だった俺を母親や祖父母とは少し違った角度で可愛がってくれた叔母。
高校の頃、部活が終わって空腹で死にそうな時、自宅よりも祖父母の家の方がもちろん近いので、よく飯を食わせてもらっていた。
体が弱かった叔母はいつも大量の薬とサプリメントを常飲せざるを得なかった、健康意識が非常に高く俺にも様々な無添加サプリメントをくれた。
今から20年ほど前に無添加サプリメントをあそこまでコレクションしていた人はいないのではないかというレベルだ。


祖母も母親も「腹減ったー!」と言うとちょっと味の濃いおかずと大量の白飯をどどんと提供してくれたが、叔母はその献立と高校生の体と部活の疲れを考慮してちょっとした1〜2品を追加してくれてさらにサプリメントもくれた。なんともロジカルな可愛がり方をしてくれたもんだ。あの頃はその凄さやありがたみがわからなかったが今となっては本当に感謝している。

そんな叔母もここ10年は衰弱が進み、入退院を繰り返しいよいよ5年前から祖母と一緒に介護施設に入った。

日に日に弱っていく叔母を見るたびにこんなに凛とした才能あふれる女性がなぜ・・・と思ったもんだ。

最後の半年ほどは意識混濁状態で入院し、いわゆる植物人間となってしまった。

祖母、母親の判断だから口出しはしなかったが、全身管で繋がれて強制的に息をさせられ続けている叔母を見るのは辛かった。

あんなに優しく、美人で才能に溢れていた女性の最後としてはあまりにも尊厳のない状態。

生きることとはなんなのかとか、考えてみたりもした。

叔母は何を願っていたのか。
祖母、母親にとっては叔母がどんな状態でも司法的に「生」であることがエネルギーとなるのか。
今となっては何もわからない。し、正解もない。

ただ事実として、45年にわたり透析生活を続け、健康、研鑽にストイックで優しく、頭脳明晰で、語学をはじめ様々なことにチャレンジを続けていた女性が70年の人生を生きたと言うことは甥として心に刻み続けていきたい。
そしてそんな人の血が通っていることを誇りとして生きていけることに感謝したい。

すでに死んでしまっている祖父、俺が物心つく前に死んでしまった祖父母の家で飼っていた犬、12年前に死んでしまったうちで飼っていた犬がもういるから寂しくはないかな。

祖母はまだしばらくは行かせてやれないから、残った親族、新たに生まれてくる予定の命を見守っててほしいと願うばかりだ。