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「甲子園の神格化」を通してアスリートキャリアを考える

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==佐々木投手が欠場した岩手県予選決勝==


2019年高校野球岩手県大会決勝に注目の佐々木投手が出場しないまま所属する大船渡高校は2−12で破れた。

無論、多くの高校球児が「目標」「夢」とする甲子園への出場は果たせない結果となった。

この「佐々木投手を出場させない」という判断が多くのマスコミやSNSを賑わせている。

佐々木投手は最速163kmという触れ込み通り、簡単に言えば超高校級プレイヤーだ。

しかし、長年高校野球は地区予選から甲子園まで短期間の間に数試合を戦い抜く必要があり、予選参加校の多い都道府県を勝ち抜き、甲子園でも優勝を果たすとなると13〜4試合を必要とする。

そこにスーパーエース一人で立ち向かう姿はこれまで多くの感動を呼び、多くのヒーローを生んだが、反面、短期間の登板過多によりその後にまで大きな影響を及ぼしてしまったケースも多数存在しており、一種の社会問題とまでなっていた。

個人的には今回の大船渡高校国保監督の判断は外野があーだこーだいうものではないと思っている。
そりゃここまで注目を浴びた選手の起用法なので世論に賛否両論吹き荒れるのは致し方ない。32歳という高校野球の強豪校の監督では若い世代でこれだけの判断をしたことにリスペクト以外ない。願わくば佐々木選手が今後アスリートとして納得のいくキャリアを歩んだときに、今回の判断が好材料となることを祈る。

==過剰な神格化が帯びる危険性==

問題は「高校野球」そのものの体制や、世間からの目をここまでにしてしまったところにあると考えている。

そもそも高校野球において「甲子園」をここまで神格化することが必要なのだろうか。
もちろん夢の舞台の設定はそこに達するまでのエネルギーを増幅させる作用があると思う。
しかし、ここまで神格化していることに一端の恐怖すら感じる。

高校野球、野球、スポーツ」を「する」、「見る」、という行為、体験において、必要以上に心情を揺さぶる付加価値を付帯させることは必要なのだろうか。

もちろんこれまで多くのドラマが生まれてきた甲子園という舞台に憧れを持つプレイヤーは多いだろう。その憧れのために多くの犠牲を払い、多くの犠牲を厭わず野球、スポーツに取り組み己を研鑽すること自体は非常に尊い。しかし、あまりに神格化されすぎている弊害として勝利至上主義に偏ってはいないだろうか。

勝利はもちろん最も優先すべき対象で、そのためにできる限りの準備と対策をすることが競技力の向上につながり、そこに取り組む、向き合うことでスポーツを通した人間力の成長につながる。これは大いに賛同できる。

しかし、必要以上の管理や押し付け、強制、身体の酷使は「憧れに対する対価」としての犠牲として果たして適しているのだろうか。


==感動は十分届く==

高校生がひたむきに努力し、勝利を目指す中での絆や友情、成長や尊さで十分感動はできないだろうか。

観戦する側はどこか悲劇のようなシチュエーションを感動の材料にしていないだろうか。

真夏の過酷な時期におよそ1ヶ月半の間に予選・本戦通じて最大14試合を後半に関しては同一会場で行わなければならない事情は主催者や慣例によるところではないだろうか。

高校サッカーの夢の舞台は国立競技場とされていたが、東京五輪開催に伴う改修でこれまで「国立」で行われていた開幕戦や準決勝・決勝の舞台は国立競技場ではなくなった。それでも充分に高校生たちは成長し、素晴らしいプレーで多くの感動を生んでいる。

==アスリートのライフキャリアを考える==

チーム、学校、地元の期待を一身に背負い、過酷な環境の中ひたむきにスポーツに身を投じる姿は確かに尊いし、多くの感動を生み、大人や関係者を満足させるだけのコンテンツとしては充分だろう。
本気で取り組んだ選手たちは多くのものも得るだろう。

しかし、それ故に視野が狭まり、「甲子園」に出場し「勝利」することが最優先され、過剰な「犠牲」すら周囲の大人を感動させるコンテンツとなっている。

そこをコントロールするのは運営であり、主催者であり、指導者だ。
選手が甲子園に出たい、腕がちぎれようが出たいというのは言葉を選ばずに言えば特攻隊と変わらない。その気持ちは非常に尊いもので、そこまで心身打ち込むものがあることは素晴らしい。それほどの魅力が野球を通して選手たちに伝わるほど素晴らしいスポーツなのだということだ。
しかし、そこには誰かが何らかの思惑を持ち神格化した対象であるということも忘れてはいけない。

選手が野球を通して、甲子園を目指すことを通して、勝利を目指すことを通して、その為の日々のトレーニングを通して何を得る、どう今後の人生に生かす、どのように今という素晴らしい時間を仲間や支えてくれるひとたちと過ごすのかという部分に甲子園を目指すこと以上にフォーカスを当てるべきなのではないか。

誰かが何らかの意図、思惑を持って過剰なまでに演出し神格化した「甲子園」。

そこに取り組む日々を否定するわけではない。
しかし、腕がちぎれてでも出場する、何事をも犠牲にしてでも目指すべき対象となるほどのものなのかを選手、指導者も今一度考えるべきだ。

なんども言うがそれほど情熱をかけられる対象があることはとても素晴らしい。

そして、周囲の大人や観客も自分が興奮している「甲子園」という対象が、本当に純然たる思いで彩られているのかどうかをしっかり考えるべきだ。

過剰なまでに演出が施され、神格化された対象に一喜一憂し、あらゆる犠牲を払うべきかどうか。しっかり向き合うべきだ。

==夢は不平等、努力は平等==

これは私の持論として、全ての競技に言いたいことだが地区予選に出場するチームをふるいにかけてもらいたい。

日程や会場の都合上、短期間のうちに決着をつけなくてはならないのは致し方ない。
ならばシンプルに出場校を減らすことも考えるべきだ。

公平にチャンスを与えることは大事だが、週に2〜3回以下の活動で、大した努力もしていない学校と、毎日朝から晩まで努力をしている学校。この2つに平等に機会を与えるというのは逆に不公平ではないか。

高校野球を例に出すと甲子園を目指すなら甲子園を目指すべく努力、環境を有している学校を選ぶべきで、そうではない学校にいながらにしてチャンスを与えるというのは日々努力している選手の負担となるだけなのではないだろうか。

(地理的環境による合同チーム編成などの情状酌量を除き)一定以上の環境、基準を満たす学校のみで予選を行うべきだ。
そうでない学校は予選に参加させるべきではない。
大した努力もしていないのに、同じステージに立つこと自体アンフェアだ。
あくまで一定の基準を満たし、相応の努力と技術を持ったチームのみで全国1を決めればいいのだ。

しょうもないチームや学生に付き合わされる選手、そして、それ故過剰な過密日程を強いられる選手が不憫でならない。