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スポーツとか色々書きます

長男と字の練習をして改めて学んだ目的の捉え方

めでたく小学校に通い始めて1ヶ月。
世間のGWに合わせて私も休みがあり、子供達と初めてというレベルでまとまった時間一緒に過ごしてみた。

普段は全く育児・家事に携わらない、世の流れに逆行している俺ではあるが、CITYのトップも離れ時間を持て余していることもあり字の練習がしたいという長男に付き合うことに。

ひらがなの練習ドリル的なものを持ってきてその中を見た私は愕然とした。
本人のプライドもあるので公表は差し控えるが、ひらがなというよりは象形文字と思われる「ぬ」や「ね」がそこにはあり、「く」「へ」「て」などのイージー寄りのひらがなですらミミズでも書いたんか?というレベルの有様だった。

そこで、まずは一旦続きから始めようとなり、下記要点は気をつけて書こうということを伝えた。

・見本をよーく見ること。
・書き終わったら、見本と見比べること。
・見比べて何が見本と違うのか言語化して俺に教えること。

簡潔にいうと、これが何一つできないのである。
見本を見るといっても何をどう見たらいいのかわからないのだ。

ちなみに見本とは

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書き順があり、大きなマスを点線で4分割して、止め、はねが書いてある上記内容だ。

これのどこを見るかがわからないのだ。
いきなりこれを見ろと言われても何をどう見ていいかわからないのは無理はない。
ただすでに今まで数百枚単位で数字や時計、字の練習の書式を(違法?)DLし、練習してきたことは知ってるので、なぜ見本の見方がわからないのか不思議だったが、それを今言ってもしょうがファッキンないので、見本の見方から練習することに。

1画目は左上のどのへんから右上のどのへんまで行ってる?まっすぐ?ちょっと曲がってる?曲がってるとしたらどの辺でどのくらい曲がっているのかな?

というようなレベルだ。
ちなみにこれは「て」の練習をしている時の話だ。

もちろん俺も教える勉強をしてきたわけではないのでGoogle先生で得た知識を元に携わったわけだが、「発達障害かな?」というレベルで物覚えの悪い長男ではあるが、時間は掛かるものの丁寧に教えることでだんだんとミミズから字に近づいてくるのである。

そうしていくうちに「く」「へ」「て」に関してはまともというかだいぶ上手に書けるようになった。2時間近くかかったので1文字30分以上費やしたことになる。

俺は途中でバカバカしくなりかけたが、子供は不思議と同じ作業どころか、それ以下の繰り返しと言える作業も黙々と続けられる。

そして途中で時々褒めることでエネルギーが注入されることも知った。

一旦脱線するが個人的に「子供を褒めてください」教育論には不信感を持っている。間違っていることやうまくいかない時に、どうしてうまくいかなかったのだろうか、どうすればうまくいくのだろうかと、一緒に考えることの方が重要だと思っている。
なぜなら、目的は「褒められること」ではなく、「やり遂げること」「できるようになること」だからだ。
褒めることは大事だが使い方と頻度を誤ると目的が変わってしまう。褒められたいから、褒められるから「やる」ようになってしまう。

つまり、「褒める」というのはあくまでガソリンであって褒められることをゴールにしてはいけない。ここを勘違いしている論調や大人があまりにも多いように感じる。
褒めた先に得るものや得たものがどれだけ大事かを教える方がはるかに大切だと考えている。


話を戻すが、自分で書き、見本と違うところを考えさせ、言語化させることで時間はかかるが一つひとつ習得していく自分への手応えを感じているのが目に見えてわかる。
「どこからどこまでどういう筆運びしているのか」をつかむスピードが格段に上がり、あとは思った通りに筆(鉛筆)を動かすことができるかの段階になってきたのだ。

ここまでいけばあとは飛躍的に上達スピードが上がるだけかと思いきや、子供はそうもいかない。「発達障害かな?」と思えるほどに、次の文字になると、気をつけるところや見本の見方が一部頭から離れてしまうのだ。
とは言ってもこれはしょうがファッキンないので、全てがゼロからではない、1か2位に戻っただけなのでまた1か2から始める。次の文字は3か4からかなと期待しつつ、2か3あたりから始めることになるのだが、「3歩進んで2歩下がる」を体感しつつゆっくりだが歩を進めることができた。

子供というのは偉いもんでできるようになり、褒められる頻度が上がると、次の字も!まだやる!ということになるが、全力で集中力が2時間以上続くこともないし、「褒められたいからやる」に変わりそうだったので3文字でその日は練習を終えた。

コントロールもしなければならないし、次はもしかしたら4文字やるかもしれないし時間がかかれば2文字かもしれないしそんなことはどうでもいい。目的は「字を上手に書けるようにする」ことだから。

しかしこのことを考えると、仕事や大人の生活も常にこの繰り返しなのだと実感させられた。
目的を明確にし、そのために何をするべきかを考え、トライする。
必要なエネルギーを途中で補充し、集中力が続く範囲で集中してやる。

今までひらがなの練習もしてきたが、練習すること、紙を書き切ることが目的になり、それをすることで褒められるから恐らくは一生懸命やったのだろう。

だが、字の練習とは字が書けるようになることが目的であって、マスを埋めることではない。紙を書き切ることでもそれによって褒められることではない。

仕事や生活も一緒だ。

子供の頃に父親が汚れの残った皿を「泡つけてスポンジでこすることが皿を洗うことではない、汚れを落とすことが皿洗いだ」と言っていたがまさにそうだ。
※その論理内に「じゃあお前がやれよ」とか「やってもらって文句言うな」って言うバカが一定数いるが、それとこれとは話が違う。

最近長女がよく洗い物の手伝いをしている。
お手伝いだからと言って甘く見ることはない。
綺麗に皿を洗ったら褒めるが、「お手伝いを行う」こと自体を褒める対象にしてはいけない。ので汚れが残ってたら親父が言っていたことをそのまま伝えている。

目的は「お手伝いをすること」ではなく「お手伝いを通じて家事を少しずつ認識、実行する」ことだからだ。

目的をどう捉えるかは成長において大きな差を生む。それは子供だろうが大人だろうが一緒のことだ。
なぜこれをするのか、なぜこれが必要なのか。
それを繰り返すことで本質が見えてくる。

今日からランニングサイトを再稼働させる。
目的をしっかり捉え、いい仕事にしようと思う中で、改めて大事なことに気づかせてもらった。

けど、バカすぎてイライラするので次の字の練習は相当先にことになると思われる。